曹洞宗梵音山 慈照院

お寺の歴史

  • 名称  曹洞宗梵音山 慈照院
  • 山門(鉄筋コンクリート、9.9㎡)
  • 住職

歴代住職

②天厳嚴長大和尚 ③大長智圓大和尚 ④月江江印大和尚 ⑤大心印大和尚 ⑥智眼揮勇大和尚
⑦天津嚴梁大和尚 ⑧圓宗慎道大和尚 ⑨單提祥全大和尚 ⑩悦瑞全之大和尚 ⑪圓之宏道大和尚
⑫屋道玄弘大和尚 ⑬天随全孝大和尚 ⑭雄山祖英大和尚 ⑮雲嶽泰龍大和尚 ⑯普明玉泉大和尚
⑰覺眼自性大和尚 ⑱栴崖義峯大和尚 ⑲佛海宗国大和尚 ⑳智覺道顕大和尚 ㉑智眼徳豊大和尚
㉒禪英道仙大和尚

寺史

寛永八(1631)
現在地
昭和二〇(1945)
東京大空襲により伽藍一切を焼失(徳豊代)
昭和三〇~三九(1955~1964)
檀信徒の協賛を得本堂・書院・山門を再建(徳豊代)

所在文化財

十一面観音菩薩坐像(銅製・高さ19cm・三国伝来)

墓誌

辰己屋惣兵衛
任俠者・狂言神楽師・文政三没
伊東貞文
明治期の塗師・大正六・八・一一没
秋 時憲
江戸末期の儒者・天明三・七・一八没
本部滄州
江戸末期の儒者・明和三・一一・一二没
青野叔元
江戸中期の儒者・儒者・宝永三・一二・一〇没

特記事項

三佛忌
二月十五日、四月八日、十二月八日
両祖忌
九月二十九日

関連事項

【慈照院】
慈照院は久堅町四十六番地にあり。梵音山と號す。
曹洞宗にして小日向総寧寺の末なり。
秋季には門内木芙蓉等の花開き景致甚だ風雅なり。
當寺は寛永八年辛未の草創にて。
開山は白眼慈雲大和尚。開基は中山五平次。
法號大巌院殿石翁道基居士とす。
小石川志料に。當寺の過去帳を引て云。
慈雲和尚者為二慈照院殿帰依僧一。
依レ之中山五平次殿草二創當院一以為二開山。
寛文三癸卯五月朔日 慈照院殿月舟道清大姉 中山主水殿祖母
東京名所図絵より
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【小石川久堅町】旧町名案内
{位置及地勢}
小石川久堅町、東は戸崎町と表町とに連なり。西は氷川下町と大塚窪町の一角に面し。北は白山御殿と川を隔てて相対し。
南は総て竹早町に接し。其の地形東西に延長し。
北の方甚だ低し。地區を劃して一番より百二十七番地と為す。
{町名起原並沿革}
小石川久堅町。もと小石川橋戸町、久保町、宮下町飛地並に宗慶寺門前、松平播磨守上屋敷及び其の抱屋敷(俗に竹屋敷といへり)と。旗下諸士の宅地を併合し。明治の初年に更に今の町名を附したり。久堅とは土地を祝しての名なり。
東京名所図絵より
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【辰巳屋惣兵衛の墓】
江戸市中の祭禮に出て有名なる辰巳屋惣兵衛の墓は當院に在り墓面には老人の娘姿にて。黒き振袖を着て舞ひ踊れる形を彫てあり。
惣兵衛は伊藤氏。小石川傳通院前に茶漬の店を開きて家計を營めり。
そは晩年の事にて年若き頃は平井辰五郎と通稱し同所陸尺町なる疊屋興兵衛といふもの弟子となり。
生來質素を好めり。壯年の時は任俠を以て世に稱せらる。常に強気を挫き弱気を助くるの氣性ありて慷慨なる者なり。
辰巳屋の名のり店を開きしは。安栄三年の夏なり。そは其頃傳通院なる大黒天をば珠に尊信する者多く。
甲子の日には講中の人々各幟を立て参詣し。夫々の支院に集曾し。酒食の賑い大方ならず。
其の田樂豆腐を商ふ。此店は鬼門にて。是まで人住ことを好まざりし故。兔角空家がちなりしが。
惣兵衛が住居しより。店の賑ひ日を追て盛んにてりたり。
惣兵衛弱年の頃より踊りを巧みにして。人の興に入ることをのみ専らとしけるが。山王權現神田明神の神事祭禮などには。
必ず賤の女に打粉。臺所唐人の學びなどいろいろ様々の可笑しき狂言をなして。見るものをして笑はしめしこと世人の遍く知ることなり。何れの神事ある毎にも。この惣兵衛の打粉を見んと人々群衆す。
天明の末年始て狂言神樂といふ事を工夫し。假面をきてくさの踊りをなし。巫女のまねをなす事ひと方ならず。
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境内のご紹介

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